昭和42年11月30日 朝の御理解
御理解、第十一節に、「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ」と、神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞと。続いて、御理解、第十二節に、「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」と、神に会いたいと思えば、にわの口に出て見よ、空が、地が、いわゆる、そのような神様のお姿だと。神は天地の守りじゃから、離れることは出来ん。そういう、例えば、神様を、私共は、頂いておるという事を、一つ、私どもの心で、それを、実感として、頂かせて貰えれるような稽古なんです、信心とは。確かに、神に会いたいと思えば、にわの口に出て見よ。空が神であり、下が神である。それが、神の姿なのだ。神は天地の守りじゃから、離れることはできぬと、こう仰せられる。それだけの事なんですけれども。それを、本当に、神様と、実感が出来ていない。本当に、外に出た時に、神様と面接をしておる。いわゆる、神の中を、分けて通りおるようなものじゃと。それは、畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中を分けて通りおるようなものじゃと。という様な神様です。そういう神様をですね、本当に、神様と、こう頂けれるという事は、ね。実感として頂けれるところ。そこんところを頂いた時に、はじめて、有難い。特別に、神様が、働きを見せて下さらなければ、有難いと思わない。誰が考えても、これこそ、神様の働きだと、奇跡的なおかげでも見せて下さらなければ、神様を信じられないというのが、普通じゃないでしょうかね。神様が、ものを言うて下さる訳でもない。神様が、まぁいうならば、白髪の老人。まぁ神様が、そんなふうに、みんなが想像しておりますね。神様とは、どんなお方じゃろうかと。白髪を生やした、品の良い、お爺さんのような風をしておられるのじゃなかろうかと。決して、そうではない。神に会いたいと思えば、空が神であり、下が神であり。神は天地の守りじゃから、離れることは出来んぞと仰る。もう何時でも、どんな時でも、どんな場合でも、どこにおっても、その神様の、守りじゃからと。お守りを下さっておるところの、働きをして下さっておるところの神様をです。なるほど、神様の働きと分からせてもらうところに、続いて頂けるのが、勿体ない事じゃなぁという事。有難い事じゃなぁという事。空が神、下が神と仰る。そのにわの口に出らせて貰うて、本当に、道を歩いておろうが、いうならば、汚い仕事をしておろうが。肥をかけておろうが、畑で、肥をかけておるような事をしておっても、神の中を、分けて通りおるようなものじゃと仰る。その実感がですね、これに感じられるおかげ。どういう信心をさせて頂いたら、そういう風に、段々、おかげを頂いて行きよるようになるだろうかと。
もう、何時でしたか、久富繁雄さんが、何気ない風に話しておられたんですけれども。お百姓さんの事ですから、畑に、肥をかけられる訳ですね。肥をかけておろうが、神の中を分けて通りおるようなものじゃと。そういうものを、実感して、あげんで、はぁ、感じておられるなぁといった様な事を、私、思うた事があるんです。というのは、その、お百姓さんの事ですから、畑に肥を撒かれる。これなどは、まぁいうならば、仕方のない事。まぁ、そうしなければならないのだと。ご地内を、みだりに汚すなよと、言うような御教えがあります。けども、これだけは仕方がない。だから、そういうその、理屈の上から言うてもです。これは、神様に堪えて貰わなければ、これはしようがない。これはもう、当たり前。ただ、いきなりに、ご地内を汚す様な事をしない。つばを吐いたり、大小便をし散らかしたり。そげなことは出来んにしても、もう、肥をかけておる時だけは仕方がない。これがまぁ、普通の者の考えなんですね。ところがですね、繁雄さんは、それをその、当たり前の事と思うてないという感じですね。肥をかけながらです。すみません、すみません。というような気持ちで、かけますよち。私は、聞かせて頂いてから、なるほど、本当に味わう事だなぁと、こう思うたです。それはもう、当たり前。それを、もっと言うと、割り切った考え方という、ドライな考え方。割り切っておると。割り切っておる、普通の者は割り切っておるけれども、繁雄さんは、割り切っちゃない。肥をかけさせて頂いて、こりゃもう、当たり前と思うちゃない。神様、すみません、少しよけて下さいち言うごたる感じなんです。
ここんところを、非常に、原形と言い、私は、なつかしゅう、ここは頂いておるのですから、そこんところを、皆さんにも、信心で、まぁキャッチして頂きたいと。そして、本当に、神に会いたいと思えば、にわの口に出て見よ、空が神、下が神と仰るように、本当に、神様の御守護の中にある自分であると。なるほど、神が天地の守りじゃから、離れることは出来んと仰るが、どこにおっても、何をしておっても、神様のお守りの中にあるのだという、その、実感が出来てくるところにです。そうドライな信心はできません。ドライな考え方はできません。いわゆる、割り切った考え方。人間じゃから、こんくらいの事は、もう神様も、堪えち貰わにゃと。もう忙しいっじゃから、お参りせんでん、神様が知ってござるから。もう、お金のない事は知ってあるから、神様は、お供えせんでも、ちゃんと知ってござるから、といった様な事を、もう、一事が万事、通じることだと思うのですけれどもね。そういう考え方ではですね、そういう考え方では、今日、私が言う、神様を頂くことは出来んのです。キャッチ、何の中からでも、そうぞ、一つという、そのところなんです、信心とは。この身は、百姓じゃけん、肥をかけるとは当たり前。そこにはです、そこに、生きた神様を、本当に、見る事も聞く事も出来ん、すみません神様。すみません、汚のうございましょうけれども、すみませんとこう、そこなんです。考え方では、可笑しいごとある。
昨日は、星野の御大祭で、ここから、車、二台に分乗して、ここから、八名、おかげを頂きました。私の乗っておる車に、秋永先生と、私と、親先生と、正義さんの運転で参りました。昨日は、私、親先生の、お供をさせて頂くという気持であった。そしてから、星野から、こう、山越えで参りましたから、ここの前を通る訳なんです。もう一日、やっぱり、疲れてもおりますから、親先生、私は、体の、あんまり強くない事を知っておりますから。もうここで、私は、降りてもいい訳なんです。ここの前を通るのですからね。正義さんだけが、送ってくださりゃ、もうそれで結構なんだ。けども、それでは、私は、お供にならないと思ったんですよね。その点は、合楽の人達は、非常に、行き届いておられますもんね、皆さんが。それは、私の流儀を、やっぱり、いつの間にか体得しておられると思うんですよ。久留米当たりに、月次祭なんかで、皆さん、何人も、一緒にお参りされる事があるです。久留米方面の方達も、福岡方面の方達も、一緒に付いてくる事がある。ですからもう、善導寺で、ほんなら私は、ここで御無礼いたしますというて、久留米行きのバスに乗っても良いのだけれどもです、今日は、親先生のお供をしておるという気持ちがあるから、やっぱり、こちらに、私を、お送りして、一緒にお供して、帰ってきて、それからまた、改めて帰る。考え方では、馬鹿らしい話ですもんね、バス賃使うて。ところが、そこから、私は、今日、私が言う、神様を頂けるんだという事なんです。だから、私も、決して、もうここから、久留米行きで帰りなさいとは、馬鹿らしいけんで言わん。昨日、親先生が、もう大坪さん、降りなさい。もう良かと、こう言われたけれども。いいえ、今日は、あちらまで、一緒させて貰いますと言うて、親先生をお送りして、そして、お礼お届けさせて貰って帰って来たんです。まぁ、いうならば、そういうような事なんですよ。もう、そういうような事は、沢山ございましょうが、皆さん。
今朝、私、御神前に出らせて頂きましたらですね。品物をはっきり、今、皆さん、そこで、ようく、ここんところを頂いて貰いたいと思います。お酒の肴に、カキですね、打ちカキ。打ちカキが、この、なかつけの皿に、綺麗に盛ってある。そこの横にも、ナマコがこう乗っている。皆さんもご承知のように、ナマコとか、カキとかという、酢牡蠣ですね。酢ガキなんかというものは、お酒飲みには、もう、一番、あった酒の肴と言われております。こちらには、やっぱり、あの、ぬた、ぬたが、こうある。何か、鯖かブリかの切り身が、何か上に乗せてあって、こう、ぬたがしてある。これなんかも、お酒の肴に良いものなんです。けども、ここんところをですね。ぬたとは、どういう意味だろうかと。カキとは、どういう意味だろうか。ナマコとは、どういう意味だろうかという事を、みなさん、色々考えて見て、今日、今まで、私が申しました事と、こう考え併せて、おかげを頂いてお出でられると、なるほど、神は天地の守りじゃから、離れることは出来ん。なるほど、揃うたということを実感させて貰える。神に会いたいと思えば、にわの口に出て見よ。空が神、下が神。道を歩いておろうが、畑の中で、肥をかけておろうが、神の中を分けて通りおるようなものじゃと。そういう実感があるところに、私共は、何事にも信心になれるのです。信心するものは、何事にも、信心になれよと仰る。
もう、夕べは、遅かったと、神様は知ってあるとじゃん。朝の御祈念に遅れたっちゃ、神様は、認めてござると。そういう中に、今日、私が言う神様は、把握できないです。もう、そりゃ、こうと決めたならですよ。例えば、ほんなら、永瀬さんとか、正義さんあたりのように、もうこら、おそらく、決めてあるじゃろうと思うです。これこそ、五時一分でも、遅れられるような事が、まずないです。そりゃ、はぁ、夕べはあんた、正義さん、二時じゃったばい、ここ帰った時は。永瀬さん、昨日は遅かったのに。そら、まぁ、私でも、そう思うくらいだけど、結局、寝らんのでも、やはり、ここに出てきておる。そこにですね、私は、今日、私が言うような神様を、本当にこの、胸に感じることが出来る。いわば、腹で神様を分かるというような事を申しますね。そこに、実感した神様を、何時も頂いておるから、私は、何事にも、信心になれるんだと思うのですよ。神様は、遠のいたところにござるとじゃない。いわゆる、割り切った信心じゃある、本当の神様は頂かれない。いわば、理屈の上に立った神様じゃ詰まらん。本当に、肌に感じる、肌に感じれれる神様でなからにゃつまらんという事を、今日、私は言ってるんです。そして、私は、今朝から頂きます、御神願に頂きます、お知らせがです。ぬたとか、ナマコとか、酢ガキなんかが、はぁ、これは、なるほど、酒の肴に最適なもの。有難き、勿体なき、恐れおおき、有難いという事を、神酒と仰る。やはり、その神酒にも、酒の肴が要るという事。この辺を、ようく、皆さん、考えてみなけりゃいかん。有難い、勿体ない、恐れ多い。本当に、生活はですね、そのおんぴは、どうしても、肴が要るという事、これを皆さんよう考えてにて、有り難い、勿体ない、恐れ多いのという生活にはですね、肴が、酒の肴が。その酒の肴が、どこに、どういう風にしてあるかという事。だから、その酒が、いよいよ、飲むほどに、酔うほどにというようなおかげが受けられるのです。
ところがです、今朝、私が頂くお知らせは、只今、申しますような、三つの鉢物を頂いて、それにですね、盃に注いでおるお神酒を、こうやって、かけておいでである。どういう事になるでしょうか。なら、例えば、ナマコの酢物を、酢ガキなら酢ガキにです。なるほど、一合の酒を飲むなら、一合の酒を、それにかけても、理屈は同じ。もう面倒くさかけんで、もう、酒の肴と一緒に飲まるるごたる風に、かけてから、食べたり飲んだりする。それでも、理屈は理屈ですたいね、面倒くさか。もう、酒を飲んだり、魚を食べたりするとは、面倒くさかけん、もう、ぬたなら、ぬたの中に、こうかけといてから、こうこ、混ぜくっといて、そして、食べたら、果たして、ぬたの味がするか、酒の味がするかという事なんですよ。皆さん、今日は、ここのところが、頂きどころなんですよ。理屈の上では、同じこつでしょうが。一合なら一合の酒を、ぬたなら、ぬたの中に入れて、そら、面倒くさくないです。もういっぺんに食べられる。もう、食べると、飲むとと一緒に出来る。なるほど、アルコール分がは入っとるけん、酔うかも知れませんよ。あら、このぬた食べたら酔うたち言う。こん酢ガキ食べたら、酒浸しじゃったろ、酔うたち言うごたる風に、さぁ、なってくるかも知れん。酒は入ってるんだから。しかし、それでは、いわば、酒の、すっきりした味わいもなからなければ、天下一品というような酒の肴であるところの、酢ガキとか、いわば、ナマコならナマコの味というものも、味わう事は出来んと、私は思うのですよ。
ところが、そういうような信心をしておる人が、沢山あるという事です。だから、何時まで経っても、本当の、酒の味も分からなければ、魚の味も分からん。神様の、本当の、肌で感じれる神様を、何時まで経っても、頂けんのだという事なんです。ここんところを、皆さん、少し、工夫を要する所ですよ。ようく、頂かにゃいかんところです。理屈の上ではです。一合なら、一合の酒を、こう混ぜといて、そして、こうこ混ぜくっといて、食べればです。飲むことと食べることと一緒に出来る。はぁ便利がええ。ところが、さぁ、それでは、いけんでしょうが。どうでも、すっきりした神様を、頂かせて頂くためにはです。いわゆる、お酒はお酒、お魚はお魚と、区別させて頂けれる、いわば、信心。それを、今日、私は、割り切った信心では、そこは頂けないと。理屈に合わんごたるけれども、そこんところを、実意丁寧神信心して行ってこそ、はじめて、その神様を把握するという事が出来る。肌で、心で、感じとる事が出来れる、おかげが受けられるのだと。
神に会いたいと思えば、にわの口に出て見よ。空が神、下が神。御理解は、それだけに頂いちゃ、つまらんです。本当にそうだと、実感できるところに、この御教えがあるんです。神は天地の守りじゃから、離れることは出来んと仰るが、なるほど、こういう中にも、神様の御守護を受けておるんだなという事をです。実感させて貰えれる信心なんです。どうでも、道を歩いておっても、肥をかけておっても、神の中を分けて通りおるようなものじゃと、という様にです。それは、ちょうど、朝露に濡れた、藪の中をです、分けて通りおるようなもの。ばらばらばらばらと音がする。朝露で着物が濡れる。これも実感なんです。神様は、そういう風にです。私は、頂かせて貰って、はじめて、にわの口に出て見よという御理解が分かる。天地の守りじゃと仰る、その意味が、分からせて貰えるのでございます。お互い、それこそ、ぬたの中に酒入れて、それこそ、ぬたのごたる信心しとるとじゃなかろうか。どうぞひとつ、そのようなところの、すっきりした信心を頂かせて貰うて、本当に、おかげを頂けば、頂くほど。信心すれば、一年一年有難うなって行くと仰るようにです。すっきりとした、有難さがです。身に付いて行く。それこそ、飲むほどに、酔うほどにという、おかげになってくる訳ですね。どうぞ。